大学4年の時鬱になって、留年して5年目が決まった。そろそろ5年生が始まるぞという頃に摂食障害を併発した。身長が170センチ以上もあるのに体重は42キロしかなかったこともある。
この頃はちょっと本当にやばかった。生理が止まったりとかそういうことは無かったのだけれど、規則的ではなかったし、何よりもいつも寒かった。母が心配して東京に来てくれたけれど、お風呂に入るときの私の裸を見て、とても悲しそうにしていて、姉に「裸見た?本当に辛くて。」とこぼしていたのが着替えていたら聞こえてきた。あの時の悲しそうな声。それをこのあと何度も聞くことになる。せめて姉がいてよかったなと思う。
母のすごいところは、私に一度も強制的にご飯を食べさせなかったところ。食べるように誘導もせず、何が食べたいかをちゃんと待ってくれた。わがままで食べないのではなく、食べれない、ということを理解してくれたのだと思う。けれどそこまで体重が落ちて、生活に支障が出ないわけはない。一度六本木にあった店員さんが歌を歌うアイス屋さんに映画の後アイスを食べに行ったのに、私が貧血で倒れてしまったこともあった。アイスを無事食べたかは正直覚えてない。でも食べた気がするな。
鬱の時にご飯が食べれず、どんどん痩せていった。その時、色んな人から言われた「痩せたね」というコメントを賛辞として受け取った自分の認知が歪んでいるといえばそれまでだけれど、90年代から2000年初め、ファッション業界で痩せていることは褒められることで、コレクションモデルはみんなBMIが16とかだった。そのくらい世界は痩せていること、不健康さを美しいとしていた。服が好きで『VOGUE』とかを読んでいた自分はそれにやられた。ただでさえ精神がめちゃくちゃな時に、正しいことなんてできるわけはない。子供の頃「ぽっちゃりしている」と言われることが多くて、それがコンプレックスだった。世の基準から見て「美しい」という人になれば蔑ろにされないと信じ込んでいた。だから痩せたことが嬉しかった。過食症を経て、摂食障害は徐々に良くなっていく。けれど、それから15年以上がたった今でもまだ、好きなものを思いきり食べるのが怖い。
夏の初め、ジャズピアノのライブの帰りにすごく美味しい餃子を食べて、そこのお店の名物だという冷やし中華を食べてみたくなった。その時期になるとお店の中はいつも賑わっていて、スーパーの帰りでバッグには食材が入っているというのにふらりと寄りそうになったこともある。7月になる前だったか、ふと思い立って行ってみた。ラーメンなんて何年も食べていなくて、冷やし中華を外で食べるのも、もしかしたら学生の頃以来かもしれない。
カウンターで食べた、梅と大葉がたくさんのった冷やし中華はさっぱりしていて、とても美味しかった。餃子を食べた時に「麺は自家製で」とお店の人が言っていたっけ。セットの餃子も美味しく食べた。これっていわゆるラーメン餃子でしょ。慣れないことをして、翌日少し怖いなと思いながら体重計に乗ったら、そこまで増えていなくて安心した。
「食べてもいい」「食べれる」ということが分かったら、私には食べたいものが沢山あった。お寿司も食べたいし、焼きそばも、唐揚げ定食も食べたい。お昼は基本好きなものを食べていいルールにすることにした。なんだかんだ言ってセーブするのはやめられないし、夕ご飯を控えめにして、沢山歩けば大丈夫な気がする。ほんの一瞬太っても、時間をかけて取り戻せばいい。という考えができるようになった。これはとても大きな進歩。(誤解されがちなんだけれど、摂食障害の人って悲しいくらい食べることばかり考えてるんだよね。)
行きつけのお蕎麦屋さんのランチに「天丼とお蕎麦のセット」というものがあって、食べる人たちを横目で見ていた。ある時に私よりも2回りほど上のご婦人が「ご飯少なめにしてください」と注文しているのを見て、「そっか、そうすればいいんだ」と思ったし、食べたい気持ちがむくむくしてきた。それでもやっぱりお店に行くと、体重のことが頭をかすめていつものお蕎麦を注文していた。たれのかかったご飯を食べたいのに。
40歳になるほんの数日前に、お蕎麦屋さんに行って「天丼とお蕎麦のセット、ご飯少なめで」ととうとう言うことができた。待ち焦がれた天丼は、海老は2本も乗ってるし、ししとうも茄子も長芋も美味しかった。もちろんたれのかかったピカピカした白ごはんも!ひと粒残らず食べて、もちろんお蕎麦も食べた。食べてる最中、体重のことが頭をかすめたけれど、でも美味しいから仕方ない。20代の頃の自分に「太っても世界は終わらないよ」と言ってあげたい。もう少し良くなったら今度は、1人でパスタとかピザを食べてみたいと思っている。その日は想像よりもずっと近い気がする。