4年ほど前に祖母にもらった指輪があって、今日もつけている。
ある帰省した日の夜、居間に呼ばれて「もういつまで覚えていられるかわからないから」という言葉と共にもらった。指輪とポストカード2枚。30年近く前に買ったもののはずなのに、ポストカードは少し横が擦れていただけでとても綺麗だった。入れてあった封筒はだいふ褪せていたけれど、多分とても大事に保管していたのだと思う。
「結婚したときは戦争中で何もなかったから、ヨーロッパに旅行に行った時におじいさんに、結婚50周年だから何か買ってください。と言って買ってもらったの。そんなにいいものじゃないけれど。」と言葉を添えて渡された。傷だらけだったけれど、私の目でも分かるくらい明らかにいいものだった。少しぶかぶかだけれど、私の指から落ちることもなくハマった。
祖母が「もうね、何もなくて。おまえは大学を出てるでしょう。おれも出たかった。作家になりたいとか夢見たこともあった。でもなーんもなくってね。書くものも本当に何もなくって。」と「何もなかった」と繰り返し繰り返し言った。そういえば祖母はほんの少し前まで別れ際にメモ用紙に書いた手紙みたいなものを必ずくれていて、その字は90歳近い人とは思えないくらい、しゃんとしてきれいだった。やっとの思いで「でもおばあちゃんは日記をずっと書いてたじゃん」と言ったら「あんなもん、ぜんぶ燃やしてしまった。もういつ死んでもおかしくない」と言うので「そんなこと言わないで」と涙声で言ったけれど、笑われた。
実家は新潟で、農家だったのできっと食べるものは都会よりあったし、そこまで空襲も無かったのだろうと思っていたけれど、甘かった。新潟市も、長岡市もめためたにやられていた。全く知らなかった。授業でほんの短い間やったのだろうけれど、覚えていない。そもそも「そこまで空襲もなかった」っていう自分の認識が甘すぎる。戦争なんだから絶対に人は死んでるんだよ。もちろん悼む気持ちはあるのだけれど、知識とそれに伴う解像度が子供の頃とは断然違う。
上にリンクを貼ったけれど、長岡空襲の時は1時間40分におよぶ空襲で1488人が亡くなったという記録があった。先日私が映画を観たスクリーンは座席数が約400で、劇場に入った時「今日のスクリーンは大きいし席数が多いな」と思った記憶がある。
祖父が「昔貧乏だった」という話をよくするのだけれど、ご飯が無いとかそういうことよりも、病弱だった母親に適切な医療をうけさせてあげることができなかったという後悔の念が強いように聞こえてならない。そのことは祖父のその後の人生にとても大きい影響を与えたのだなとよく思う。自分から話したがらないのであまり知らないけれど、葬式とか、折にふれて感じることはよくあった。
「貧乏」という、自分の家の問題(のように思えること)と、「戦争」という国を挙げてのことが結びつかなかった可能性もあるし、それを言葉にできなかったという想像もできる。少なくとも戦争が無かったら祖父はあそこまで自分を責めなくてよかったのではないか、祖母はやりたいことに一歩でも近づけたのではないか、などなど想像が止まらない。
祖父母が今の日本の空気をどれだけ感じれているのか分からないけれど、日本は確実に軍国に近づいて、防衛費は増額され続け、広島に原爆が落ちた日に大阪府の知事はファッションショーに出演し、ここ何年か毎年この時期になると給食は子供の命綱だという声も聞こえる。さらに、法隆寺に続き国立科学博物館もクラファンで活動費を募るという。沖縄戦での「集団自決」の文言を教科書から排除するという恐ろしいニュースも入ってきた。日本がどこを向いているのかは明白で、考えるだけで辛いことばかりだ。
情けないけれど、こういうことを言い続けて抵抗するしかないという決意を新たにしてこの話を終わる。戦争も、軍拡も、それに関係する全てに反対。
来週は終戦記念日です。亡くなられたすべての方、苦しく辛い思いをされた方のご冥福と傷が癒えることを心よりお祈りします。この時だけではなく、ずっと話していくことが私たちの責務だと日々感じています。